June 22, 2007

流浪の民のゆくえ

(先月のシリア報告は取り急ぎここまで。以下雑感として少し)

Imgp7386「アラブは一つ」の理念を掲げるシリア政府は、押し寄せるイラク人避難民をこれまで受け入れてきたものの、今年1月からは一ヶ月ごとに滞在許可書を更新しなければならないなど条件が一段と厳しくなっている。さすがにここまでくるとヨルダン政府同様悲鳴をあげているのだろう。物価も騰がり仕事も少なくなり、ジャラマーナでは貧しいイラク人女性の売春婦が増えているらしく、シリア市民の反応も複雑だ。イラク人避難民に聞くと、衣糧などの不足を補う組織もありシリア人は皆よくしてくれていると言う。しかし肩身の狭い避難民は追い出されることを恐れているかもしれず、どこまで本音で話してくれているのか量りかねるところもある。
*写真はジャラマーナのイラク人が多く住むアパート

すでにこのイラク人避難民は深刻な国際問題になっているが、イラクの治安が改善しない限りこれからも増え続けていくだろうし、やがて彼らの貯金が尽きることを考えると、避難先に新たな混乱が拡がっていくのはもう時間の問題かも知れない。現在もイラクでは無知と絶望から武器を取る子どもたちが増えているが、避難先の子どもたちの学習の空白も、このまま長引けば彼らの将来に大きな影を落とすことになるだろう。そうした子ども達に、子どもとしての当たり前の環境を作り出すのは大人としての当然の責任である。イラク戦争から4年。アメリカはもちろん、この現状を引き起こした日本を含む国際社会の責任はますます重い。PEACE ONでは少しでもこうした子どもたちの学習を助け、また交流の場をつくろうと、新しい教育支援の一環として小さな寺子屋をつくろうと企画中だが、今こそ国際社会全体の支えが必要だ。子どもたちは世界を映し出す鏡であり、未来そのものである。私たちは、まさに自らの未来を失おうとしているのではないだろうか。今、イラクの子ども達に何ができるか。私たち自身が問われている。

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June 19, 2007

シリアの「ファッルージャ」

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5月21日、最後に訪れたのは、ダマスカス郊外のジャラマーナ地区。ここは多くのキリスト教徒が住む地域だが、2004年のファッルージャ総攻撃以降、シリアに逃れてきたイラク人が最初に辿り着いた地域ということで、別名「ファッルージャ」とも呼ばれている。現在10万人ものイラク人が住んでいるという。

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バグダードの激戦区、ドーラから逃れてきたキリスト教徒のおじさんたち。「電気も水もないし、いつ殺されるかわからず、とても住めたもんじゃない」と窮状を訴える。

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コカコーラの看板をでかでかと掲げたレストランに入ると、そこはなぜかイラク食堂で、従業員も全員イラク人。厨房には以前ファッルージャでムジャヘッド(イスラーム戦士)として闘っていたという輩までいて、珍しい日本人客に一同大騒ぎ。なんでもバグダードのアザミヤ地区からレストランごと移ってきたそうだ。ちなみにアザミヤといえば、現在米軍によってシーア・スンナ両派の居住地区を隔てる悪名高い分離壁が建築されているところである。

Imgp7393_2レストランでパンを焼いているアブ・オマルさんは、以前は21年間もサッダーム・フセイン大統領宮殿で働いていたせいで、政権崩壊後は自宅も破壊と略奪に遭い、やがては命も狙われるようになって、一昨年家族で避難してきたという。幸い奥さんが大学で教えていた経験があり、勉強を見てあげることができるので、3人の子ども達はシリアの学校の授業にもついていけているようだ。イラクでは息子のオマル君の通う学校を4回も変えたという。オマルという名前はスンナ派独特のもので、その名前だけで命が狙われてしまうからだ。今やバグダードの学校では、校庭に宗派間抗争の犠牲となった市民の拷問死体が棄てられていたりして、とてもまともな学校生活など送れないという。ちなみにアブ・オマルさんはイスラーム教スンナ派だが、奥さんはシーア派であり、こうした両派の混在家庭はイラクではごく普通のことで、以前日常会話でスンナ、シーアと話題に出ることはありえなかったそうだ。今のイラクは宗派対立による内戦状態とも表現されるが、これは前政権崩壊後の政治的対立によって作り出された抗争であり、権力闘争なのだろう。いまや国連への難民申請時にすら宗派を聞かれると辟易していた。レストランでの収入は低い上に、アパートの家賃も騰がったので、イラクの親類から月200ドル送金してもらっていても、生活は非常に苦しいそうだ。

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家の中のものは全て盗まれ、残ったのはこのクリスタルの灰皿ひとつだけだった

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June 17, 2007

イラクのヒロシマ・ナガサキを逃れて

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5月20日、フィラスが住んでいる町ディアアティーアへ
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ダマスカスから北に乗り合いタクシーで1時間ほど。人口2万2千人程度の小さな田舎町
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アラブの陽光をいっぱいに浴びた風を受け、ゆるやかに時を運ぶ名物の風車と、バグダードのタージから昨年移り住んだというイラク人家族

「ファッルージャはヒロシマ・ナガサキになりつつある」

と、日本人の私たちに訴えたのは、町のはずれで出会ったアブ・アマルさん。イラク中部ファッルージャで携帯電話の販売店を営んでいたが、2004年の米軍による総攻撃により店を破壊され、商品も全て盗まれたという。親族も次々と殺害され、国内避難も限界に感じて昨年6月に3人の子どもを連れ逃れてきた。一時は近所の工場で働いていたが、体力がついていかず今は無職。3人の子ども、長女イスマー(10歳)、長男アマル(9歳)、次女ルカイア(8歳)は現在学校に通っていない。小学校には在学証明がなくても試験を受ければ入学できるそうだが、シリアとイラクでは教育課程が違うため、(例えばシリアの英語の授業の開始学年はイラクより早い)一学年落第してしまうなど、授業になかなかついていけず、他にも言葉や習慣などの違いもあって馴染めない子どもが多いという。アブ・アマルさん一家も、いつまでシリアに住めるかわからないので、はっきりするまで学校に通わせるつもりはないという。「子どもたちはイラクに帰りたがっていても、この治安状況では地獄に戻るようなもの。しかしこのまま仕事もなく貯金が尽きればそれしか選択肢はなくなるだろう。」
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帰り道、皆お尻が冷たくなっていることに気付く。屋外のソファが雨で濡れていたようだ。苦笑いしつつ照りつける太陽に濡れたお尻を向けて、アラブの風で乾しながら歩いていると、街角の雑貨屋のオヤジが瓶入りオレンジジュースを5本も両手に抱え、ゆっくりと前後に揺らして飲んでけ飲んでけと微笑んでいる。今日はイラク人家族を訪れるたびにオレンジジュースのもてなしをうけてみんなお腹はぽちゃぽちゃだったが、オヤジの笑顔に負けてありがたくいただいた。すっかり街の風景に溶け込んでいた彼もイラク人で、ファッルージャに多いドレイミ族だという。

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June 16, 2007

イラク人だらけのシリアへ

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5月19日シリア入国。バッシャール・アサド大統領の信任投票を間近に控えた首都ダマスカス。
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暴走族か?と思いきや、バッシャール応援団の若者達。小気味よいリズムのシュプレヒコールは、イラクでよく聞いたあの「血も魂もサッダームに捧げる!」という懐かしいスローガンのバッシャール版だった。100%近い支持での再選はやる前から決まっていても、みんなお祭り騒ぎが大好きなようだ。


「イラク人?どこにだっているよ。」

街を歩く人々に尋ねると、たいていこう返される。4年間の占領によって引き起こされた混乱と宗派間抗争による治安悪化の影響で、現在イラク国内でおよそ200万人、国外では220万人ものイラク人が避難民となっていると聞くが、国外で最も多くのイラク人避難民を受け入れているシリアでは、その数140万人にも及ぶという。

宿泊先のアパートを出て、たまたまそこにいたヒマそうな青年に道を尋ねるとイラク人学生だった。フィラスというディヤラ出身のこの青年、経済的な理由から今は大学には行っていないそうだが、3年ほど前からシリアに住んでいるという。イラク人避難民の支援をしたいと言うと関心を示し、案内してくれることになった。

Imgp7343_1フィラスの案内で、まずはダマスカス市内のシナーア地区を訪れた。アパートのドアを叩いて「イラク人ですか?」という突撃取材には驚いたが、多くの家族が快く迎え入れ状況を話してくれた。以前はシリアと並んで主要な避難先の一つであったヨルダンでは、現在政府がイラク人の入国を厳しく制限しているので、ここ最近では多くがシリアに逃れてくるようだ。時機はさまざまだが、特に昨年2月イラク中部サマッラでのシーア派聖廟爆破事件を機に激化した宗派間抗争に巻き込まれ、家などを売り払って命からがら逃れてきた家族が多い。バグダードから来たという18歳のハッターブ君の一家も、家賃100ドルほどの安アパートに身を寄せ合って暮らしていた。学校で勉強したいが、在学証明書が必要で、バグダードの教育省まで取りに行かなければならず、仕方なく今は近所のスーパーで働いて家計を支えているという。
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イラク人が多く住む地域の一つ、ダマスカス市内シナーア地区。通りを歩けばイラク人家族が気さくに話しかけてくる。 


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June 14, 2007

イラク人であるということ(友人@ヨルダンの場合)

イラク人画家ハニさんの新居@アンマンにて
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5月18日、フランスからきたイラク人スタッフ、サラマッド&アマラ夫妻と合流。空港の入国審査では、フランス人アマラとの結婚証明書、帰りの航空券など、必要な書類をきちんと揃えていたにもかかわらずはじめは入国を拒否されたという。押し問答の末にアマラが呼ばれて、彼女のもつ書類と突き合わせてようやく信用してもらった。今回は予算不足からサラマッド一人だけで来る予定だった。直前に安い航空券が手に入ったので、こうして二人で来られたわけだが、もし彼一人だったら入国できなかっただろう。

ヨルダン政府がイラク人の入国を制限しはじめてからもうずいぶん経つが、訪れる度に厳しくなっていると実感する。3月にカーシムを日本に招聘したときも、結局ヨルダン経由は不可能だった。以前は宿泊客の9割以上をイラク人で占めていた定宿のガーデンズホテルでも、今ではイラク人は十数人しか泊まっていないという。

2003年のイラク占領から、初めは裕福なイラク人が次々にヨルダンに移住してきて、土地や家を買い漁り物価が高騰した。やがてイラク国内の治安悪化にともない、貧しい人々も命からがら国境を越えるようになり、ヨルダン国内のイラク人の数は、70万とも100万人とも言われるほど激増。私もアンマンを訪れるたびに、街で飛び交うイラク方言の多さには驚かされてきた。やがて物価の変動のみならず治安悪化の問題もあってか、イラク人の入国は制限されていって、2005年にアンマンの高級ホテルで発生した連続爆破事件の犯人がイラク人とわかってからは一気に厳しくなっていった。今ではお金のないイラク人のヨルダン入国はほぼ不可能になっている。

厳しくなる前にヨルダンに移住できたハニ一家のような場合でも、今では一度ヨルダンを出国するともう入国できなくなってしまう可能性がある。彼の場合は現在ヨルダンで仕事を持っているし、そのおかげで1年間の滞在ビザも持っているのでこれまでは大丈夫だったが、今後は新しく発行されたGという種類のパスポート所持者以外は全てはねられると聞いて更新手続き中だ。それが終わらないと手術のためシリアの病院に来た母の見舞いにすら行けないという。もちろんただ入国が厳しいというだけでなく、ヨルダン人のイラク人に対する風当たりも冷たくなっているという。これだけ数が増えれば、仕事にあぶれるやっかみもあるのだろう。「ヨルダン人のみ」という求人広告も増えてきたようだ。

19日にはタクシーでアンマンからシリアのダマスカスに移動。ヨルダン国境ではサラマッドの出国手続きに時間がかかる。入国はもちろん、出国すらイラク人というだけの理由でこうだ。どこに行ってもこれだから、もうイラク国籍なんて変えてしまいたいとこぼす。

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June 13, 2007

卒園パーティー

帰国後の忙しさも一段落したので、先月のヨルダン&シリア滞在のお話&写真の続きを少しずつ。

5月17日@アンマン
イラク人画家ハニさんの末っ子、ハッスーニの卒園パーティーにお呼ばれ。
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愛しのハヤーと並んでご機嫌?
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めちゃめちゃかわいいイスラミックダンス
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めでたく卒園証書をもらうハッスーニ
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みんなお勉強よくがんばりました

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May 17, 2007

アンマンから

5月11日に36歳になった。二十代の後半あたりからだろうか、時々自分が今何歳だったっけと本気で忘れるほど年齢を意識しなくなっている。つれからプレゼントにもらった巨大な竹箒でさっそく玄関先を掃いてみた。箒の大きさに比べると実に掃除のし甲斐のない狭い面積だが、毎朝早起きをして庭先を掃除するくらいのお勤めはしたいなあと思う年頃である。

しかし翌日には旅に出るため一度掃いただけで箒は留守番。12日、バックパックを担いで「イラクに咲く花in豊橋」に参加。昨年同様アラブの民族衣装ディスダーシャとクフィーヤを身にまとい、なんちゃってイラク人?になりすます。漫才にならない夫婦トークでイラクの棗椰子とチャイを話すと、ふたり息の合わないところが不思議と受ける。

終了後、終電で半田の義姉さん宅へ。義姉は牧師夫人。日曜の翌朝は隣の小さな教会での礼拝に加わり、夜の出発までのんびり過ごす。今回は初の名古屋空港発。空港に銭湯があると聞いていたので、チェックインを済ませ息を弾ませていくと入り口に閉店の看板が。10時閉店だが入場は9時までだったようだ。楽しみにして風呂に入らずにいたのに、がっかり。一気に疲れが出て機内ではふて腐れて眠る。

ドバイでの乗り換え時間も短く、14日朝にはもうアンマン。イラク人画家ハニさんの新居近くのアパートを借りる。ダウンタウンから離れて滞在するのは初めてだ。雨も降り、思いのほか肌寒いアンマン。街は特に変わっていないはずなのに、あちこちの看板のアラビア語が目に飛込んでくる。やはり文字が読めるようになると風景が変わる。下手くそでもアラビア語だけでがんばって話すと、みんなの表情も和らいできて、これまでにない笑顔を見せてくれる。世界が変わらないと嘆く暇があったら、こうして自分を変えていかなければ。

引っ越したばかりのハニ一家。ラマーディーのお母さんが目の手術のためシリアの病院に。一家で訪ねたいのだけれど、新しいパスポートの更新がまだなので、このままではヨルダンに戻れなくなるかもしれないと、何とかお母さんがアンマンに来られないかと奔走している。かれこれもう2年も会っていないそうだ。バグダードから訪ねてきた従兄弟は、アメリカの企業と提携してイラク国内の世論調査の仕事をしているが、いつかは家族でアメリカに住むつもりだという。ダルブナーギャラリーのマネージャーは、今度シドニーに移り住む。国連に何度も申請に行って、やっと許可が下りたそうだ。ヨルダンで暮らすイラク人の不自由さを厭って、ハニさんも同様に移住を考えてはいるものの、イラクでの生活をぶち壊した連中の力を借りてまでするのはまっぴらごめんだと憤る。それでも移住を考えるだけで、まるで故郷を裏切るような罪悪感に胸が締め付けられるという。数ヶ月前に逃れてきたバグダードのムスタンシリア大学の教授は、避難先のホテルで毎日著書にとりかかりながら、イラクの若者向けに民主主義と融和と寛容の精神を養う書物を翻訳出版し無料配布するプロジェクトを友人と計画している。医薬品や食糧支援などには予算を出しても、どこも教育には出してくれないと嘆いている。それでも、この国の混乱を治めていくには教育しかないと信じていて、たとえどれだけ長い時間がかかろうとも実現させたいと、大きな躯体に不釣合いな可愛らしい目を輝かせて話す。

このように、さまざまなイラキーが、引き剥がされた故郷に、さまざまな想いを抱き、この異国の地で毎日を過ごしている。今回は名古屋での銭湯からへま続きでどうも凹むことが多いけれど、この絶望的な状況のなかでも、決して希望を棄てていないイラキーに出会うとやはり力が湧いてくる。

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ハニさんの末っ子ハッスーニを学校まで迎えに行く

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September 19, 2006

再びダマスカス

Imgp6353Imgp6367ラマダーン(断食月)直前のダマスカス。星や三日月形をしたラマダーン用の光る飾りものに混じって、ヒズボッラーの黄色い旗とナスラッラー党首の写真が賑やかに新たな彩りを加えている。


Imgp6370旧市街のスーク・ハミディーエの喧騒をかき分け、いつもの骨董品屋のユースフさんのところへ。レバノンでの戦争のときは観光客も減って商売上がったりだったそうな。アンマンでもここダマスカスでも、タクシードライバーや露店商のオヤジなどに聞くと皆ヒズボッラー支持一色だったが、ユースフさんなど英語の話せるインテリになると複雑なようだ。イスラエルに対する抵抗は支持できても、あれだけの市民の犠牲はやはり到底支持できないという。ちなみに当時大挙押し寄せていたレバノンからの避難民のほとんどはもう帰国しただろうが、イラクからの避難民はヨルダン同様増え続けていて、やはり来るのはお金持ちが多いらしく皆土地や家を買っていくので不動産価格が急騰しているそうだ。

また、イラクから逃れてきたというパレスチナ難民についても聞いてみた。昨年、イラクに住むパレスチナ難民が迫害を受けヨルダン国境まで逃れてきたものの、ヨルダン政府が受け入れを拒否したためしばらく国境で行く当てもなく途方にくれていたところ、シリア政府が彼らを受け入れたと聞いていたので、そのパレスチナ難民たちは今どうしているのだろうと気になっていたからだ。

サッダーム政権時代は一定の保護を受けていたパレスチナ難民も、政権崩壊後は逆に厳しい立場に追いこまれていた。住んでいたアパートを追い出され、キャンプ生活を余儀なくされていた人々もいた。PEACE ONも支援で関わっていたバグダードのアルバラディヤード地区のパレスチナ難民キャンプを管理運営していたハイファクラブは、パレスチナ人の友人の話によると、2004年秋にガセ情報から米軍のがさ入れと攻撃を食らってマネージャーは国外に脱出し組織はほとんど機能していない。彼らにとって駆け込み寺のような存在だったはずのハイファクラブがなくなり、バグダードの治安悪化は猖蹶を極め、命からがらたどり着いたヨルダン国境で運の尽きかと思いきや、そこは一神教信者には怒られるかも知れぬが捨てる神あれば拾う神ありか、シリア政府が助け舟を出したというわけだ。

きっとダマスカス周辺にも来ているだろうから、行って様子を聞いてみようと思っていたが、どうやら北部のハッサケのキャンプにいるらしい。ハッサケといえば、今回クルディスタンに行くために使ったトルコ迂回ルートの途中、シリアの果てカーミシュリーの一歩手前ではないか。日程的に長居は出来なかったとしても、ちょっと寄って話を聞くことくらいは出来たなあと調査不足を反省。同じくパレスチナ人のユースフさんを通して、今後はより密にパレスチナ難民のことを聞いていこうと思う。

Imgp6376帰りにふと覗いた露店商で野菜のみじん切り用カッターを購入。ホテル近くのコーヒーショップで水タバコを一服しているときに、自分のカメラがないことに気づいた。ユースフさんのところ電話してもないから、おそらくあの露店商で置き忘れたか掏られたのだろう。もうないだろうなと思いつつ戻ってみると、もう露店は片付いていたものの、売り場にいたおじさんがニコニコとカメラを持って立っていた。あのあとすぐカメラに気づき私を追いかけてみたがもう見えなくなっていて、その後警察に注意され店をたたんだが、きっと戻ってくるだろうとありがたいことに待っていてくれていたという。すばらしい。またひとつシリアが好きになった。アンマンのがめついタクシードライバーに疲れ果てていた心が一気に軽くなる。まったくこれだからアラブはやめられない。これがテロ支援国家とアメリカに名指しされる国に住む人の姿である。

予定していたアラブ雑貨の商談等は順調。夜と朝方はずいぶん涼しくなってきた。シリア滞在も残すところあと二日だ。

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September 18, 2006

アンマン回想

Imgp628115日夜から再びシリアのダマスカスにいます。以下簡単にアンマンでの写真と回想録を。


Imgp6232イラク人画家ハニ・デラ・アリさんの奥さん、オムムスタファ(ムスタファのお母さん)にイラク料理のドルマ(トマト、玉ねぎ、ズッキーニ、ナスなどの野菜をくり抜き中にご飯を詰め込み煮込んだ料理)の作り方を習う高瀬。ハニさんばっかり日本に行ってうらやましいとこぼすオムムスタファ。いつか彼女の料理教室のための招聘を実現したい。

Imgp6254出来上がったドルマ。さすがドルマ作りの名手オムムスタファの手ほどきを受けただけあって美味。あとは帰国後のピースオンカフェで腕試しか。


Imgp6277銀座中和ギャラリーで10月2日から行われるイラク現代作家展のメインアーティストとして来日予定のイラク人画家、シルワン・バラン宅で。バグダード生まれのクルド人なので、今回のクルディスタン滞在時の話でも盛り上がる。

Imgp6274他の多くのアーティスト同様、現在のイラクで芸術活動を続けるのは非常に困難な状況のため、シルワンさんは2年前からアンマン在住。イラクの女性、動物などをテーマにした作品が多く、原初的な生命の躍動感に満ちたフォルムを艶やかな色彩で表現している。(過去記事参照)現在、アブドゥラー・ヨルダン国王の肖像画を描く仕事も請けている。


定宿のホテルは相変わらず我々以外はほとんどイラク人で占めていた。これからヨーロッパの親類のところなどに避難するためにビザの発給を待っている人、ヨルダンで避難生活を送るために一時的に滞在している人、とにかく治安が悪化したイラクからは脱出したものの、身よりもあてもなく途方にくれている人など様々だ。クルディスタンに来ていたイラク人同様、持ち前の明るさで冗談ばかり言って周囲を和ませるが、みな申し合わせたようにバグダードの状況は最悪だとこぼす。

Imgp6264写真はバグダードから逃れてきて6月からこのホテルに住んでいるという家族。26歳になる娘のファーテンは湾岸戦争時の米軍爆撃のショックから精神に障害をきたし寝たきりの生活を続けている。ヨルダン人だった父は湾岸戦争前に逃げて行方知れずのためお母さんが一人で面倒を見ている。看護疲れのストレスからかお母さんの胸の上には巨大な腫瘍が。パスポートのないファーテンは、二度とイラクには戻らないという約束でヨルダンへの出国許可を得たものの、ヨルダンのパスポートも持っていない。イラクでは治療不可能と言われたので、ヨルダンの病院に連れて行くも、パスポートがないという理由で追い返される。逃げたとはいえ父親がヨルダン人だからヨルダン国籍を持っているはずだと結婚証明書を持って何度役所に行っても、証明書にイラク外務省のサインが必要だと追い返される。お母さんはグリーンゾーン内のイラク外務省にどうやっていけばいいのかと途方にくれている。話を聞こうと耳を傾けると、この15年間に蓄積されてきた苦悩が一気に噴出するかのごとくとめどなく話し続ける。何とかできないかとヨルダンの友人達に相談した結果、ありがたいことに二人の友人が動いてくれることになったので、少ないが当座の生活資金を個人でカンパして、あとは友人に引き継ぎヨルダンを後にした。

現在ヨルダンには100万人以上のイラク人がいるという。以前は30万人前後だったというから、避難してきた人がほとんどだろう。ファーテン一家は湾岸戦争から続く二重三重の苦しみを受けている戦争被害者だが、これ以上の受難に喘ぐ家族はいかばかりだろうか。戦争。爆弾を落とす側の世界にいる人々の記憶は薄れていっても、爆弾を落とされる側に立たせられた人々にとっての苦しみは増え続けていく。

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September 14, 2006

イラク・クルディスタン出国~アンマン到着まで

アルビル(9月4日)

Imgp6168アマル君の車でクルド人自治区首府アルビルへ。途中ガソリンスタンドに並ぶ車が延々と数珠つながりの列。バグダードでの光景を思い出す。これでは一日待っても入れられるのかどうか。アマル君はやはり路肩で売っている闇ガソリン、外国ものはよろしくないとバグダードのドーラ製を入れていた。

Imgp6178一時間ほどでアルビル到着。中央の高台の上に巨大な古城が聳え立つ大きな都市で、古城を取り囲むいわば城下町の印象。田舎シャクラワの澄んだ空気に慣れてきていたので、大都市の澱み煤けた空気が重く全身にまとわりつく。ふと見上げた空に、米軍下請けの航空自衛隊はここまできているのかと思い出す。

迷宮のようなスーク(市場)を買い物ついでに逍遥。フレッシュジュースのシャーベット売りに興味を示したら宝飾品店の親父がおごってくれたり、買い物帰りのおやじに売り場を尋ねると案内してくれ値引き交渉まで手伝ってくれたりと、都会と言ってもみな人がいい。ところで案内してくれたイギリス生活が長く英語が達者なクルド人のおじさんは、聞いてもいないのにアラブの悪口を言っていた。彼のようにあからさまに言う人は珍しいが、これまでもクルド人に「なぜ来たの?」と質問され「バグダードの友達と会うため」と答えたとき、それがアラブ人だとわかった刹那に微妙に表情を変化させる人は多かった。

はじめにジュースを買ったスーク入口の瀬戸物屋の兄貴がやはり在英生活10年で英語が達者だったので、再び訪れてうまい食堂はないかと尋ねるとやはり店の前まで案内してくれた。食後に高瀬の願いでアルビル唯一のエスカレーターがあるというスーパーはどこかと再び兄貴に尋ねると、郊外なのでタクシーに乗る必要があるが連れて行ってやると言って、店をほっぽらかして案内してくれることになった。

ターリク兄貴がイギリスに10年もいたのは亡命していたからだそうだ。10年前、サッダームを批判するビラをまいていたら友人は次々と捕まり殺されたり拷問の末気が触れていったりしたという。兄貴は何とか逃れたわけだが、10年ぶりに故郷に帰ってみたらあらゆるものが大きく変わってしまっていて、まだ一ヶ月しか経っていないので戸惑いっぱなしの毎日だという。サッダームがいないので満足かと思いきや、決してそんな単純な話ではないようだ。ところで兄貴はタクシー代まで払ってくれた。

Imgp6181郊外のショッピングセンター、NAZAMALLに到着。今年6月に開店したばかりだそうでガラスの壁もピカピカに輝いている。タクシーから降りた途端にどこかヨーロッパかアメリカの郊外にでも来たのかと錯覚する。内装も陳列物もしかり。

Imgp6185ただし、お目当てのエスカレーターは動いていない。停電中は発電機だけではエスカレーターまで電力を賄えないそうだ。慣れないエスカレーターで日に5人は転ぶと言う。この辺を聞いてやはりイラクにいるんだと妙に安心してしまう。

帰りに兄貴が姉さんの家に寄っていけというので、お言葉に甘えてクルド人民家のおもてなしを受ける。姉さん夫婦と子どもら4人に囲まれて食事までご馳走になり、実に豊かな時間を過ごさせてもらった。お姉さんの旦那、スレイマンさんも少し英語が話せるのでイラクやクルドや日本のことなど四方山話に花が咲いた。彼らにとって、サッダーム時代がいかに苦しいものだったかということは疑いの余地がない。しかし同時に今日のイラクの混乱に対する複雑な思いが言葉の端々から滲み出ていて、その元凶としてのアメリカのやり方に対する怒りもまた激烈であった。

ちょっと寄るだけのはずがすっかり長居してしまう。泊まっていけとも言われたが、荷物もあるし明日の出発も早いのでとお暇する。ホテルまで車で送ってくれた。街は停電中。闇の中そびえたつ古城が月明かりに妖しく照らされていた。

イラク出国(9月5日)

早朝セルビス(乗り合い)タクシーでアルビルを出発。今頃サラマッド&アマラもモースルをシリアに向けて出発しているはず。一週間のイラク・クルディスタン滞在もあっという間だった。シャクラワに行くときとは変わって、あまり山岳地域には入らず緩やかな道路を車は走る。

Imgp6195割と平坦なのでうとうとしかけた頃、ふと窓から外を見るとどうもアラブ人らしき服を着た人々が多く目に付く集落が。さらにこれまでほとんど目にしなかったイラク国旗までちらほらある。同席の客に聞くとこの辺りはバシェーハというモースルに属するアラブの地域だそうな。ちなみにモースルに入るとしたら、やはりイラクのビザが必要になると言うから不思議なものだ。イラクの中にあるクルド人自治区の中にまたイラクが出てくるわけだ。この辺りの検問の警察も腕にイラク国旗のワッペンをつけたイラク警察。バグダードでイラク警察と言えば今や最も信用できないと悪評だが、久しぶりに見たイラク警察はみな愛嬌たっぷり。一緒に写真まで取らせてくれてメロンまでもらってしまった。はしゃぐ高瀬に同乗のクルド人は「置いていこうか」と呆れ顔であった。

Imgp6197やがて検問にはおなじみペシュメルガが出てきてクルド人エリアに戻る。ドホークでは米兵が何人か連れ立って町中の歩道をぞろぞろ歩いているのを見かけた。グリーンゾーンなど各米軍施設にこもりきりのバグダードではまずありえない光景だ。ここクルディスタンの治安状況がいかに安定しているかを如実に表している。ところで韓国軍は国境のタクシー乗り場付近で見かけた以外全く遭遇しなかった。よく韓国人かとも間違えられたが、聞いた限りでは韓国軍の評判はいいようだ。

お昼過ぎにザーホー到着。いよいよイラク出国だが、ずいぶんと混んでいるようでなかなか進まない。入国時とはうって変わって荷物のチェックが厳しいようだ。イラク側ではまだましだったが、トルコ側ではさらに厳重。しかも機械を使わないのでさらに時間がかかる。結局国境を抜けるのに合計4時間近くもかかってしまった。トルコ側で係員に「イラクのどこで何をしていた」とたずねられたので、「バグダードの友人とシャクラワで会っていた。今イラクは治安が悪いのでクルディスタンで会おうということになったんだ」と答えると、

「クルディスタンなど存在しない。イラクで会っていたんだろう」

「だから、イラクのクルディスタン地域で・・・」

「クルディスタンなど存在しない」

「はあ、イラクのクルド人の住む地域って言えばいいんですか?」

やがて別室に連れて行かれて、「トルコではクルディスタンなんて口にしちゃあいけない。人によっては怒り狂うぞ」と警告を受ける。なるほど「~スタン」というのは確か「~人の土地、国」という意味だから、クルド人国家を絶対に認めない立場のトルコとしては禁句なんだろう。おそらくシリアもイランも同じか。国境を越えてからシリア国境へ抜けるヌサイビンまでも検問が多かった。行きは全くなかったのに不思議なものだ。イラクのクルディスタンから来る人間には異様に神経を尖らせているようだ。

クルド人は独自の文化と言語をもち、トルコ、イラク、イラン、シリアなどにまたがる地域に2000万人から3000万人も暮らしているというのに、独自の国家を持たずに各国の思惑の中で翻弄され続けてきた歴史を持つ民族だ。1500万人ものクルド人が住むというここトルコでは特に激しく弾圧されてきたと聞いていたがなるほど頷ける。あちこちではためいていたクルド旗を思い出し、一定の自治が認められている今のイラクのクルディスタンに住む400万人ほどのクルド人は、トルコなどのクルド人と比べてずいぶんと恵まれてきているのでないかとも思う。しかし、愛民族心がさらに盛り上がり、各地でクルド人国家独立への気運が高まれば、新たな戦争になるかもしれないと心配していた人もいたことを思い出す。初めてのクルディスタン訪問。サラマッドとの打合せが主な目的ではあったが、未知の世界だったクルディスタンを垣間見て、自己と世界の関係を新たに構築させる課題をいくつか土産にすることが出来た。

シリアとの国境の町ヌサイビンに到着したのは午後4時過ぎ。国境がなんと午後3時で閉まるらしく、今夜はトルコで足止め決定。サラマッドに電話すると、モースルで数件の爆破事件があったらしく国境が閉鎖されて彼らもモースルから出られなくなったそうだ。結局ダマスカスで落ち合えるのは明日の夜ということになった。


ダマスカスで友を待つ(9月6日)

Imgp6220朝10時に国境が開き、歩いてシリアへ。カーミシュリーのガラージュ(バス停)から12時半発のダマスカス行き長距離バスに乗る。デリゾールまで親戚の結婚式に行くという自称日本人似の青年二人と駄弁っていると、あっという間にユーフラテス川を越える。夕暮れ時にパルミラで軽く食事。車窓から外を眺めると、金色の落日に照らされて朱に染まり彼方にかすんでゆく遺跡群を、峻厳とした岩山に凛然とそそり立つアラブ城が見守っていた。古から絶えず繰り返されてきた人間の熱き栄華の夢の跡。やがて透き通った瑠璃色の帳が包み、白銀の月が今夜も変わらぬ光を注ぐ。まどろむ人々の幾多の夢を乗せて、バスは美の古都シャーム、ダマスカスを目指して走り続ける。

9時過ぎにダマスカス到着。アンマン行きのガラージュに移動して友を待つが、日付が変わってもまだ来ない。電話もないし、こちらからも通じないので何かあったのではないかと心配になる。レストランの兄貴達が不憫に思ったのかタダでヒヨコマメやらチャイやらジュースやらをおごってくれる。警官まで暇つぶしにチャイをおごってくれる。朝まで待ってもこなかったら、先にアンマンに向かうしかないかと思っていた頃やっとサラマッド&アマラ登場。時刻はもう朝の4時を回っていた。イラク側国境ではアマラのビザが期限切れだからバグダードまで戻って手続きしてこいと言われ、冗談じゃないといくらか金を握らせ何とか通過したものの、シリア国境ではバスの他の乗客共々6時間も待たされたそうだ。

アンマンへ(9月7日)

早速タクシーをシェアして夜明けの道を国境へ急ぐ。4人ともいつの間にか眠りこけてしまい目が覚めたらもう国境だ。現在ヨルダン国境ではイラク人の入国が厳しく規制されているので、サラマッドは果たして入国できるのだろうかとみなに心配されていたが、一時間程度で通過。やはりフランス人アマラとの結婚証明、そしてフランス行きの航空券を持っているからだろう。

9時頃アンマンに到着し、いつものイラク人ご用達ホテルにチェックイン。サラマッド&アマラは早速航空会社へ便の日程変更へ。イラク情勢のせいで予定の便に間に合わなかったということで、いくらかペナルティを支払って明日の朝の便に変更することができたそうだ。二人のアンマン滞在が一日しかないということで、一睡もせずに友人へのあいさつ回りを何件もはしごする。以前と比べて料金を高くぼったくろうとするタクシー運転手が増えていて、乗るたびにエネルギーを消耗する。あいさつ回りの最後、イラク人画家ハニ・デラ・アリさんの家に着いたのは夜11時過ぎ。さすがに寝不足でフラフラになりながら深夜2時頃ホテルに戻る。少し眠って翌朝6時ころ無理矢理目をこじ開けてサラマッド&アマラの出発を見送ったあと、お昼近くまで死んだように眠っていた。

アンマンでの活動(9月8日~)

サラマッド&アマラを無事送り出してからは、これまでのちょっと無理のあったスケジュールを改め、休み休み体力の回復に努めながら活動中。10月2日から銀座中和ギャラリーで行われるイラク人現代作家展のための打合せ、ビザ取得手続きなどを、今回も来日予定のハニさん、そして初来日となる画家シルワン・バランさんと進めています。滞在中のホテルは、相変わらず自分達以外の宿泊客はほとんどバグダードから逃れてきたイラク人。ロビーに集まればイラク人持ち前の明るさで盛り上がっていますが、それぞれ話しを聞くとやはり皆深刻な問題を抱えています。先日はジャーナリスト・シバレイ氏の取材にお邪魔してアブグレイブ刑務所で拷問を受けた方のお話も直接聞くことが出来ました。このように伝えたいことは山ほどありますが、帰国後の企画のための準備が遅れているので、これまで少しずつ紹介してきた「イラク・クルディスタンでの手記」以降は、詳しくお伝えできるのは帰国後の別の機会になるかもしれませんがご了承ください。それでも活動中はこのブログで出来るだけ現地の様子などお伝えしていくよう努めますので、これからもよろしくお願いします。

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