六日目。朝風も強くかなり冷えたので御参り後も寒くてしょうがなかったが、昨日と同じくずいぶんと楽にお勤めをこなすことができた。今日で丸一日断食とお勤めが続く日も最後かと思うと、苦しかった日々も妙に懐かしく、実に有り難い時間だったなと感じられる。「南無妙法蓮華経」のお題目も、いったい何回繰り返して唱えたことだろう。一分間に6回は唱えていたとして、一日13時間のお勤めで4680回の計算になり、それが丸5日は続いたわけだから、トイレ休憩など差し引いてもおそらく2万回前後は唱えていることになる。
南無妙法蓮華経とは、「妙法蓮華経(法華経)の教えに帰依する」という意味である。情熱的な法華経信仰者であった宮澤賢治の作品などを通じて、法華経の深遠かつ壮大な宇宙観にはたまらなく魅了されてきたものの、その全てを原典で読んだことはないので私にとってはやはり未知の世界だ。仏教が最先端の学問として渡来してきた聖徳太子の時代から法華経は日本でもなじみの深い経典であり、鎌倉時代の日蓮の登場によって、法華経は仏教の最高経典として民衆の間にも広がっていった。法華経を直接読むことの出来ない人間でも、法華経を信じて「南無妙法蓮華経」とお題目を唱えれば、経典の全てを読んで実践するのと同じ功徳があり、誰の中にもある仏性が目覚めて成仏できるという。しかし断食までしてお題目を2万回も唱えてみたところで一向に成仏できない自分がいる。結局何億何万と唱えてみたところで、そこに信心がなければ永遠にただの不可解な七文字にすぎないのかもしれない。やはり内容を読んで理解することなしに、ただそのお経を信じればいいと言われても、どうしても納得できない自分がいるのだ。
お上人に伺うと、原典に当たっても決して簡単に理解できるものではなく、解説書などに頼っても幾多の解釈に惑わされるだけなので、むしろ解らないままでかまわないから何度も繰り返し原典を読んでいくことが功徳であると説かれる。その究極の形が「南無妙法蓮華経」の七文字の唱題なのだろう。あまりに深遠かつ難解な経典であるがゆえにとても一般大衆の手には届かなかったものを、こうして誰でもお題目を唱えるだけでその功徳に与ることが出来るようにしたのは、日蓮の計り知れない慈悲の心からなのかもしれない。それを心から信じてただお題目を唱えることが出来る人は本当に幸せだと思う。この広大無辺の宇宙の中で人間が知っていることなど芥子粒ひとつの大きさほどもない。ソクラテスの「無知の知」ではないが、自分は何も知らないということを知っている人間のほうが、自分は多くを知っているという人間よりは賢いのだ。この宇宙、生命、そして存在の神秘は、どんなにこの人間の頭で考えてみたところで、わからないものの方が圧倒的に多い。
自分自身の生命、そしてそれに連なる全ての生命を生かしているこの妙なる力は、たとえ科学が「どのように」というその仕組みを解明することは出来たとしても、「なぜ」それが存在するかという謎には決して答えることができない。古今東西、哲学がその「なぜ」に挑戦し続けてきたが、各々仮説の上塗りを繰り返すのみで、決して「なぜ」から生まれる人間の苦悩を取り除くことは出来ていない。芸術は「なぜ」の一面の美を垣間見せてはくれるが、感性がなければそれに気付けないままに通り過ぎてしまう。ただ宗教のみが、その「なぜ」に真っ向から対峙して人間に生きる意味を与えようとしてきた。主に西欧社会からは「神」をたてない仏教はよく宗教ではなく哲学だとも言われるが、「なぜ」により苦悩する人間の魂の救済を目的にしている以上、私はそれは宗教だと考える。
英語ではReligionと書くが、これはラテン語から派生した言葉で、「Re-ligion、再び結びつける」という意味があるようだ。キリスト教やイスラームなどの一神教の見方からすれば、かつてアダムの原罪以前は一体だった「神」と再び結びつくということなのだろう。しかし仏教の見方からすれば、山川草木悉皆有仏性(人間だけでなくこの世の全てのものは悉く皆仏になる性質をもっている)という言葉にもあるように、誰でももっているはずなのに自我にとらわれているがゆえに気付けなくなっている仏性、つまり己の中の仏と再び結びつくということなのだと思う。
これは「宇宙」と再び結びつくと考えたほうがわかりやすいかもしれない。生れ落ちた刹那は誰もが宇宙と完全なる一体のうちにあったが、自我の目覚めと共に自己と世界(宇宙)を引き離し、言葉と知識によって対象としての宇宙を分断して人間社会での生活に順応していく。しかし本来一体であった宇宙との分離は、人生の中でやがて耐え難い苦しみを生み出し、かつての一体感を渇望するようになる。性愛などによって一時的にかつての一体感を追体験できたとしても、かつて得た充足感を永遠に満たすものではなく、宇宙との断絶から生まれる根源的な苦しみからは決して逃れることはできない。そこで宗教が、その失われた人間と宇宙との繋がりを回復させ、苦悩する人間の魂を救済し、決してかつての母親の子宮内世界での状態に退行するのではなく、新たな人格を持ってこの現実世界に立ち向かうひとりの人間がこの宇宙と新しい関係を結び、永遠の生命の中で生きていくことを導いていくのだと思う。
現代社会においては、悪質なカルト(新興宗教)の氾濫や、歴史的にも誤った理解による宗教・宗派の対立、紛争などが絶えず、とかくに宗教そのものが誤解されているのは残念な限りであるが、現在のイラクを見れば明らかなように、その多くは政治的利害関係から宗教が悪用された結果の悲劇であり、宗教の本質とはかけ離れていると思う。教団などの組織体は別として、人間である限り宗教的なものからはけっして離れて生きていくことはできないと思うのだ。
そしてその神仏と人間、もしくは宇宙と人間との断絶を超えさせる力というのが、まさに「信じること」なのだろう。この信心こそが、人間にして不可能な断絶への跳躍を可能にする力に違いない。いくら頭で考えてもわからないその摩訶不思議なもの、その妙を、そのままで信じること。人間自我への敗北宣言、神仏への完全なる服従のみが、永遠の生命を勝ち取るというこの矛盾を、全身全霊で受け入れることである。しかしかつてキリスト教迫害の急先鋒だったサウロ(パウロ)が突如回心し熱烈な伝道者に生まれ変わったように、その信心がいつ人間に芽生えるのか、それはまさに神のみぞ知るではないかとも思う。他人からの信仰の強制などは言わずもがなだが、自分自身の意思だけでは、どうしても信心というものは生まれない。信心というのはまさに与えられるものであり、一神教的に言えば神の恩寵、仏教的に言えば仏の慈悲だろうか。
そうすると、話は戻るがやはり「南無妙法蓮華経」と「心から信じて」お題目を唱えることのできる人間は、仏の慈悲を受けるという僥倖に恵まれ、苦しみから救われた人間であると言うことができるのではないか。突如として降りてくるだろうその「信心」というものは、大変有り難いものに違いない。普段何気なく使う「有り難う」とは、「有るのが難しい」と書くが、文字通りさぞ有り難いことだろう。
断食を明けて食をいただいたときの有り難さこそ知ったものの、まだ信心の有り難さに恵まれない私は、お題目を唱えながら信心についてああでもないこうでもないと邪な妄想に悩まされるのであった。それでも「南無妙法蓮華経」という七文字のお陰で、その不可解さゆえに一体これはどういう意味なのかと、深遠かつ広大な法華経の世界、そして宗教そのものに対する関心の扉を開くきっかけにはなっている。それだけでも大変有り難いことは確かである。(つづく)
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