ロンドンでの同時多発爆破事件の死者は50人を超え、さらに増える見込みだという。突如として襲いかかる暴力に命を奪われた人々、そして残された家族や恋人、友人たちの悲しみは如何ばかりであろうか。イラクの戦場で目の当たりにした、あの記憶に深く刻み込まれたひとりひとりの嗚咽と慟哭が、再び意識下を這いずり回っている。死のデータとしての数字の背後に広がっていく、破壊された物語を背負い明日を生きねばならぬ人々の、ひとりひとりの苦悩の表情がよみがえる。死者は数字ではない。イラクだろうが、イギリスだろうが、このように簡単に人間が殺されていくのを見るのは、本当にやり切れない。
しかしながら、この報道の格差はどうだろう。イラクではこの規模の事件は連日のように起こっているが、今では新聞の一面を飾ることは皆無に近い。いやイラクなら実はまだましなほうなのだ。ベタ記事程度で流されていくものや、記事にすらならない無数の死があり、この地上はそうした死者と、残された人々の幾億もの悲しみに包まれている。今回の事件を知ったとき、こうしたあからさまな報道の圧倒的非対称に、正直嫌気がさしもした。
「イラクでは毎日のように起こっていることなんですよ。そもそもこんな事件が起きてしまうような原因を作ったのは、いったい誰なんですか」と突き放したい気分にもなってしまったが、今イギリスに留学している友人がいるので、やはり心配になって安否を確認するメールを出した。そこで何が起こっているかを想像する鍵として、そこに顔の見える友人がいるかどうか、これはやはり大きいと思う。
その友人は無事だった。しかしまだ安否の確認が出来ていない友人もいるので心配だという。
以下、この事件を受けて改めて考え、その友人宛にメールで吐露したことを一部編集の上紹介します。
「9・11の時も感じたことですが、
こういう事件が起きると、いつも僕の内面はある種の奇妙な葛藤が起こり、
引き裂かれてしまいます。
当然、ひどいことだと思う反面、
幾多の犠牲を飲み込んで膨張してきたこの文明が崩れていくのを、
「ほら見たことか」と半ば喝采を挙げてしまっているような自分もいるのです。
チョムスキーの言葉、
「誰だってテロをやめさせたいと思っている。簡単なことです。参加するのをやめればいい」
を引っ張りだすまでもなく、やったことは全て跳ね返ってくるわけで、
イギリスはこの事件の何万倍もの仕打ちをしてきたわけだから、
こんな事件が起こるのは至極当然だとも思ってしまうわけです。
しかしよくよく考えると、そういう感情の背後には、
攻撃される主体を単に「アメリカ」や「イギリス」など、
漠とした記号ないし抽象概念で捉えている事がわかります。
これは9・11の直後、熱くなったアメリカのいわゆる愛国者たちが、
「テロリストであるアラブ人を全て殲滅せよ」と気炎を上げ、
戦争を良しとする論理とあまり変わりないのかもしれません。
この論理に共通していることは、そこに具体的な人間の顔がないこと、
つながりを持った人間が生きていないということだと思います。
恐ろしいことですが、こうした考えが、
自分の中にも存在しているということを認め、
何とかそこから乗り越えることは出来ないだろうかと、
僕もイラクに行って直接人間同士のつながりをつくり、
簡単に言えば彼らと友達になってしまい、
友達が殺されるかもしれないということがどういうことなのか、
自分の問題として考え、その恐ろしさと、戦争の愚かさを、
みなに知ってほしいと思ったものでした。
それでもまだ葛藤して引き裂かれているのも事実ですが、
やはり今回はSさんがイギリスにいるということで、
単純な感情に飲み込まれずにすんでいるのかもしれません。
世界中の人が、世界中に友達を持つようになればいいのに、と思います。
ところでこれを機に、テロ対策ということで、
世界規模でまた一気に警備が厳しくなり、
結果的には皮肉にも新たないわゆる「テロ」を生む土壌が
醸成されてしまうことを心配しています。
無数の「テロ」によって無辜の民の生血を啜り肥大してきたこの文明という怪物は、
その体内にやはり「テロ」によって自らを食い尽くす胚子を孕んでいたのでしょう。
そしてその萌芽にせっせと水をまいてしまっているのは、
「テロ」の脅威に怯えて、「テロに屈しない」という政府にすがろうとする、
私たちの心の弱さなのかもしれませんね。」
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